2つの合戦の話

映画『ブレイブハート』のバトルシーン

スターリングに旅行しようという人は、たいていメル・ギブソン監督・主演のヒット映画『ブレイブハート』を観たことがあると思います。観ていない方、ぜひ1度は観るべきです。歴史アクション物としてなかなかよくできていますし、スコットランド人の気持ちがよくわかるようになります。当然、スコットランド人にも大変人気のある映画で、私も夫と一緒に観に行きましたが、バトルシーンで観客が一斉に歓声を挙げていました。

ただし、この映画のストーリーが史実に沿っていると思われるとちょっと困ります。ウォレスの名を国際的に広め、スコットランドの観光にも大いに貢献した映画ではありますが、ウォレスの人物設定や他の登場人物との関係など、かなり自由にアレンジされています。ウォレスの指導した戦いの内容については、まったくのフィクションだと思った方がいいです。というわけで、『ブレイブハート』に出てきたバトルの史実についてちょっと説明しておこうかというのがこのセクションの主旨です。映画を観ていない人にはネタばれがあるので注意。また、大原先生のHPに掲載されているレターの内容とも少々重複しますがご了承を。

1.スターリングの戦い

『ブレイブハート』には、スターリング、フォルカーク、バノックバーンの3つの主要バトルが出てきました(イングランドでの戦いは除く。ヨークを攻撃したなんてのは完全なフィクションです)。このうちフォルカークの戦いはスターリング地区の外になりますので、ここでは残り2つの話をします。

「スターリングの」戦いって?

まず、「スターリングの戦い」。広大なフィールドを挟んで、片方に甲冑騎馬の戦士がずらりと陣営をつくって並ぶイングランド軍。相対するは、顔にウォーペイントを施したキルト姿の寄せ集め軍。一見とても勝ち目のなさそうなスコットランド軍は、しかしウォレスの意表をつく奇抜な戦法で見事大勝利。映画のハイライトシーンの1つでしたが・・・ちょっと待て、何か抜けていないか?

この戦い、スコットランド人なら学校の歴史で習って誰でも知っている有名なバトルですが、教科書に出てくる名前は"Battle of Stirling Bridge"。つまり「スターリングの戦い」で、その名の通り、橋を舞台に繰り広げられた戦いです。ところが映画では"Battle of Stirling"で橋がなく、戦場は見渡す限りの広い野原。聞くところによると、アイルランドのとあるゴルフ場で撮影したのだそうで、なるほど羊1匹見当たらないのに芝草がきちんと短くなっていました。

橋の有無で大違い

橋の1文字の有無くらい大目に見ろよと思うかもしれませんが、実はこの差が映画のウォレスと史実のウォレスの違いを端的に表しています。そもそもなぜウォレスは橋を戦場に選んだのか?
それは、イングランド軍が装甲を着せた馬の上に甲冑を着た騎士が乗った重騎軍を中心として戦うからで、映画のように広々としたフィールドなんかでまともに対戦したら、スコットランド軍の軽装歩兵に勝ち目がないからです。実際ウォレスはフォルカークの戦いではまともな合戦を強いられ、案の定大敗北を喫します。

スターリングの戦いはウォレスにとって最初の大規模戦。しかし当時ウォレスは騎兵を供給できるスコットランド貴族の支持をほとんど得られなかったので、ハイランド人歩兵中心の軍編成でした。数でも装備でも圧倒的な劣勢となれば、ロシア軍に抵抗するチェチェン軍みたいなものです。対抗策はゲリラ戦しかありません。幅の狭い橋の上ならイングランド軍も縦列行進しかできない。馬も身動きとれず、速駆けで歩兵を圧倒することができない。少数の歩兵でも重装備の大軍を圧倒することが可能になる。だから「スターリングの戦い」を選択したのです。

丘の上から一気に突撃?

では実際の戦いはどのようなものだったか? 歴史の教科書によると、こんな具合でした。

現在ウォレス・モニュメントがある丘、アビー・クレイグ(Abbey Craig)からは、スターリング城からスターリング橋までの一帯の様子がよく見渡せる。そこでウォレスは軍をこの丘の頂上に置き(後にモニュメントをここに建てたのはその記念)、イングランド軍の様子をうかがった。そしてハイランドに向かって行進を開始したイングランド軍が、フォース河にかかる橋のあたりに来たのを見はからって、一気に丘から駆け下りて突撃をかけた。

イングランド軍は、坂を駆け下りてこちらに向かってくるハイランダー戦士たちの勢いの恐ろしさに度肝を抜かれてパニックに陥り、身動きもとれないまま捨て身の歩兵の刃にかかって次々と倒れ、あるいは恐慌をきたした味方の馬の下敷きになる有様。その阿鼻叫喚の中、橋は重みに耐えられず、イングランド軍の足元で崩れ落ちた・・・。

ブレイブハートとはだいぶ違いますが、これもけっこう絵になりますね。勇ましくて血が騒ぐシーンです。ウォレス・モニュメントにも戦いの状況の解説がありますが、同様の筋書きです。ところが、留学中いつものようにスターリング城まで長い散歩に行った私は、お城のエスプラネードからウォレス・モニュメントを眺めているうちに、ふと首をひねりました。
「あの丘、こっちから見ると絶壁だなあ・・・。」

全然恐ろしくないんですけど・・・

そう、アビー・クレイグの丘は、スターリングの町に面する側はほぼ垂直の絶壁で、ロッククライミングやアブセーリングの練習に使われたりするほど。そのため、ロープに命を預けたくない人は、裏側の緩やかな斜面をぐるりと遠回りして降りることになります。ウォレス・モニュメントに行ったことがある人ならみなご存知の、だらだらと長い坂道で、スターリング側からはこの道は見えません。見えない裏道を駆け下りてくる戦士なんて、全然怖くないじゃないですか。

おまけに、長年の干拓のおかけで今ではすっかり良好な牧草地となったスターリングですが、当時はフォース河の向こう側一帯は葦のそよぐ湿地帯でした。そしてその中に橋から北へと一本道が通っていました。ここだけ盛り土した土手状になっていたのです。その土手道の両側は、降りたら足がずぶずぶめり込むような泥沼地。
橋のおかげでイングランド軍が縦列隊形になっているのは大変けっこうですが、それを襲うスコットランド軍の方も、橋に向かって走るためには縦列隊形にならないといけない。これじゃいくら一生懸命走ってもあんまり迫力出ませんね。土手から降りて扇状隊形で攻めようとしても、走るのはちょっと無理で、いっそう迫力がない。

その上、この道がまたけっこう長い。現在の橋からアビー・クレイグまでの道を実際にジョギングしてみるとわかります(私は歩いたことしかありませんが)。この道は"Causewayhead Road"という名前がついていて、"causeway"とはまさに湿地帯に通す土手道のこと。かつての土手道の名残です。戦いが行われた橋は今の橋(※橋についての詳しい話は「カンバスケネス」の項の注1参照)の位置より少し上流にあったらしいですが、距離的には変わらないか、むしろ今より長いくらいでしょう。丘の裏手の迂回路をぐるりと回って駆け下り、さらにこの土手道を端から端まで走ったら、橋に着いた頃にはくたくたです。

同時代のドラマ脚色か?

「突撃の恐ろしさでパニック」説というのは、同時代の記録にもとづくもので、そのため歴史家も素直に受け入れてしまうのですが、よく考えたらウォレスの時代、戦いの記録を書けるような人はあまり多くありませんでした。のちにロバート・ブルースが書かせたアーブロース宣言など当時の文書を見ると、貴族でもけっこう自分の名前をサインできず、バッテンを書くだけの人がたくさんいたことがわかります。戦士たるもの文字なんか習ってる暇があったら剣を鍛えよ、というモットーがあったかどうかは知りませんが、軍人の文盲率はかなり高かったのです。足軽兵士ならなおさらでしょう。

従って、同時代の記録といっても教会のお坊さんか誰かが聞き書きしたもので、目撃者の記録ではないわけで、けっこうドラマチックに脚色されていたのではないかと思います。記念すべき勝ち戦なんだから、「スコットランド戦士の猛攻に名だたるイングランド軍もパニック」くらいのことは言っておきたい。それを書き付けるお坊さんも、現場の地形なんか知らないので鵜呑みにしてしまう。いや、自分でもさらに脚色を施したかもしれない。それでこんなにかっこいい話になってしまったのではないでしょうか。これは私の推測ではなくて、歴史作家ナイジェル・トランターの推測ですが、私も同感です。

真相はおそらくゲリラ奇襲

私の夫も歴史学部卒でこのあたりの時代には興味があるので、この疑問についても2人でいろいろ話しましたが、「やっぱり近くにひそんで奇襲をかけたんじゃない」と意見が一致。橋の周囲の葦の原にしゃがんで待っていれば、足が冷えて居心地は悪いでしょうが、イングランド軍にはまず気づかれません。わざわざ遠くの丘の上から突撃なんかせず、すぐ近くからぱっと出てきて切りかかったほうが、イングランド軍だってびっくりするはず。戦いの終盤で橋が崩れ落ちたというのも、前夜のうちに支柱を半分くらい切っておくとか、細工を施しておいたのではないでしょうか。

・・・と思っていたところへ、一時期絶版になっていたナイジェル・トランターの小説「The Wallace」が再版されたので、早速買って読んでみたら、さすがはスコットランドをくまなく足で歩いて取材したことで有名なトランター、やはりスターリング橋の戦いは奇襲戦法の勝利として描いていました。丘のてっぺんは見張りだけで、兵士のほとんどは湿地に潜み、丘からの合図で一斉にイングランド軍に襲いかかったという設定。それなら私も納得です。

2.バノックバーンの戦い

こちらの戦いはウォレスの死後、ロバート・ブルースの指揮で戦われたもので、映画ではストーリーの最後に、「ウォレスの敵だったブルースも、ついに性根を入れ替えてイングランドに反旗を翻した」という結末を出す目的で挿入されていました。

ウォレスを裏切ったのはブルースに非ず

ロバート・ブルースという人は、確かにウォレスのようなわかりやすい愛国戦士ではなく、若い頃はイングランド王エドワード1世のお気に入りで、エドワードの忠臣の娘と結婚していますし、ウォレスが活躍する以前の頃には、どうも態度が煮え切らないというか、あっちについてはこっちに移りということをしていました。一介の戦士だったウォレスと違い、王族の血を引くブルースの場合、愛国心より王位追求という動機の方が強かったのではという印象は拭えません。

とはいえ、ウォレスを裏切ってイングランド側に売り渡したというのはいくらなんでも行き過ぎで、ブルースはむしろウォレスの味方だった様子がうかがえます。ウォレスは確かにスコットランド貴族に裏切られるのですが、張本人はメンティースという人で、ブルースは無実です。

ウォレスの壮絶な処刑の1年後にスコットランド王位についたブルースは、ウォレスの方法を見習ったようなゲリラ戦法で、次第にイングランド軍を押し戻していきます。その長い戦いの白黒を決したのがバノックバーンの戦いで、この合戦の目的はスターリング城の攻防。フォース河を守るこの重要拠点がイングランドの手に落ちたら危なくてしょうがない。しかし劣勢がわかっているのだから囲城戦にはしたくないし、正面対決も苦しい。そこで、やはり当時は一面の湿地帯だったバノックバーンで、イングランド軍を待ち受ける戦略をとったのです。

バノックバーンの戦場はどこに

バノックバーン・ヘリテージ・センターに行ったことのある人は、センターの裏手の野原に立つスコットランド旗とロバート・ブルースの騎馬像を見て、「ああスコットランド人は700年前に、ここで民族の運命を賭けて戦ったのだな」と感慨にふけったのではないでしょうか。しかし、本当はあの野原は戦場とはまったく関係がありません。なぜあそこに記念センターや彫像を建てたのかというと、要するに「高速道路から下りてスターリングに向かうルート沿いで、旅行客にとって交通に便利だから」というだけの理由のようです。

それならどうしても本当の戦場跡を見てみたい、という人もいるかと思います。では戦いはどこで行われたのか? 実は、誰も確かなことは知らないのです。いつもの通り重装甲騎兵中心の戦法をとるはずのイングランド軍にとって不利なように、という理由で湿地帯を戦場に選んだということなので、かつて湿地帯だったところであることは確か。ヘリテージ・センターのあたりは小高くなっていて水はけ良好ですから、あそこでなかったことだけははっきりしていますが、ではどこだったのかとなると、推測はいろいろありますが、きちんとした発掘などまったく実施されていないため、絞り込もうにも決め手がありません。

実は私の住んでいる家は新興住宅地ですが、バノックバーン地域内。川沿いの低地でかつて湿地帯であったことは確実です。そういうわけで、私の隣人など、「もしかして庭を掘ったらイングランド人の骨が出てきたりして・・・。祟られたらどうしよう」と、けっこう心配しているそうです。バノックバーン出身の地元民である私の夫のは、我が家の下ではなくてもう少し先の、バノックバーン公園の辺りではないかと言っていますが、これもやっぱり臆測の域を出ません。

最近になって、スターリング市もついに重い腰を上げ、バノックバーン戦場跡に記念碑くらいは建てないとと、調査に乗り出すことを考えているとか(※注)。謎が解かれる日も近いか? といっても、記念碑を建てようにもすでに戦場跡は人家か道路の下になっている、という可能性は大いにあり得るのですが・・・。

※注
スターリング市の要請を受けて研究調査を進めていたスターリング大学講師が、2001年1月にバノックバーンで調査結果の発表を行いました。詳しい内容は掲示板過去ログの「続報!:バノックバーンの戦場は・・・」へ。この先生の意見では、私の隣人の心配はどうやら的を得ていたようです。

TOP | 戻る | 次へ | 目次に戻る


更新日: 2001-01-28